徒然なるままに

2014

'14,1 '14,2 '14,3

2013

'13,1 '13,2 '13,3 '13,4 '13,5 '13,6 '13,7 '13,8 '13,9 '13,10 '13,11 '13,12
2012 12,1 '12,2 '12,3 '12,4 '12,5 '12,6 '12,7 '12,8 '12,9 '12,10 '12,11 '12,12
2011 '11,1 '11,2 '11,3 '11,4 '11,5 '11,6 '11,7 '11,8 '11,9 '11,10 '11,11 '11,12
            
'14/ 3/ 29  春の花が咲き、バイクメンテナンスV

 ネコヤナギの花芽が膨らみ、フキノトウが出てきて、ウグイスの初鳴きが聴こえた。住宅地ではその次は福寿草の花が開く順番だろうが、ログ周辺では福寿草は植えずにクロッカスと水仙を植えた。まだ日陰の沢すじに、いくらか雪が残っている今、日向に植えているそのクロッカスと水仙が咲き始めた。いよいよ春を実感する。

 「ほえほえクマ」は「熊猫」を蹴散らすか!?

先週あたりはポツポツと・・・今週に入ったら「強制排除の放水」で負傷者が180人!という騒ぎになってから一時報道が増えた台湾の学生による国会議場占拠。
 情報今文化は中国本土とは比較にならない一般市民レベルの認識に、政権側の対処では中国と同じ様な強行に出ても分はないと台湾の馬英九中華民国総統は「対話を求める」と表明したようだ。
だが今週末時点でも、国会議場占拠は続いている。

 3.11の時の台湾からの支援に対しては多くの日本人、今まであまり台湾に馴染みの少なかった人もその国の支援の様子に注目したと思う。
 以前より親日的と言われ、日本企業との経済交流も深く、かつての太平洋戦争前の併合なり植民(という見方もあるでしょうが)政策外交下では、西のお隣国と同じ様な対応をしたはずなのに、一方は反日。片や親日と両極端なお国柄。
 爺も仕事柄、両国に渡航した事があるが、初めての海外出張は台湾だった。カイシャインを続けている間7.8回は行き来した国が台湾。

 もう一方の西の隣国、韓国も1990年ソウル五輪の2年後ににやはり仕事上、初めて渡航した。この国はこれっきりでした。又機会があったとしても断ったかな(苦笑
 ま、仕事であれば仕方がないが、好んで行こうとは思えなかったのは事実。逆に南の隣国台湾はプライベートでも行きたい気になる感じでしたねぇ。
 ただ、最近は教育面でも、反日とは言わないだろうが日本を美化する歴史教育を変えていくと言う報道も伝わっているし、以前は親日的な歴史教育をしていたという事なんでしょうね。そういう理解のある台湾国民が憎からずと思う国が日本だったのでしょう。
 でもそれは実にノーマルな感覚だと思うのですがね。と日本人の爺が言っても仕方ないですが。

 で、親中というより一つの中国の幻想になびく馬英九さんに反旗を翻した格好の学生達。国会議場占拠とは世界的に例がないことなんだそうですね。武力を用いないだけでクーデターに近い状態だねぇ。日本では安保闘争やらその後の学生運動もあったけれど、為政者は銃弾ではないにしても水鉄砲やら真綿で窒息させて押さえ込むというか、そういうチカラが体制というもの。

 3.11支援、親日感情に応える!?だけではないでしょうが、絵の上手な親台日本人・・・多分ネット情報に通じている若い方々でしょう。
 彼の国会議場占拠の主張、サービス貿易協定に反対する学生らが繰り返すスローガンの
「退回服貿」(トゥエイホェイ フーマオ) =「サービス貿易撤回」】が、日本人に「ほえほえく〜ま
と聞こえたことから学生側を支持する日本人が「主張する熊」のイラストを作ったそうなんです。

 ネットで見ると、とても上手な絵も、ちょっとそうでもない絵でも・・・
「ほえほえくま」さんありますねぇ。いやぁ主張って大事ですねぇ。

爺的には絵はきれいっぽくないが下のこれがイケテルかも
でもなぁ、慰安婦問題と騒がれてる中で、これは出さない方が良いかもね。


'14/ 3/ 22  春彼岸頃、バイクメンテナンスU

 県北久慈市では62cmの積雪とニュースでは報じていた。「南岸低気圧」と最近は言うらしい「台湾坊主」。いかにも語感を気にしたものか「台湾坊主」なんて言い方を覚えているのは相応の年代になったという事でしょう。
 春近くの今頃、1,2回は見舞われるドカ雪。ま、暑さ寒さも!の彼岸の週。
 雪で山仕事もお休み!こんな日は骨休みとして読みたい本でも持って日帰り温泉。行き先は冬季通行止めのR342行き止まりの祭畤温泉。

 持って行った本は【冨手洵さん著「線路はつながった」 三陸鉄道復興の始発駅。

 来月4月から北リアス線、南リアス線の三陸鉄道が全線運行するというニュースは先週辺りのニュースで流れていた。三陸鉄道の当事者自身が著したこの「線路はつながった」という本を是非読んでみたいと思っていた。

 第1章「列車は今どこにいる」3年前の東日本大地震から記された文章はその時の状況から、震災3日後の3月16日北リアス線の一部区間運行開始を手始めに、間もなく無料運行の実施、およそ1ヵ月後の4月18日には3年後の全線開通を三鉄の復興方針として沿線の市町村への説明を行っている。・・・




 先週、三陸鉄道全線開通のニュースを知ったときには、北リアス線と南リアス線の間、宮古〜釜石をつなぐJR山田線の復旧についてJRがやる気がないのならBRTでも良いんじゃないか・・・みたいに思ったものだが、この「線路はつながった」を読むといささかBRTへの発想は浅いものだろうという気になってくる。結果どういう風に納まるかは分らないし端的にやる気の違いとは・・・まぁそういう事なんだが、情熱的なものの違いを思わざるを得ない。勿論開業以来10年続けた黒字経営から、以降マイナス収支に転じている財政状況から交通環境の変化もあるのだが、2011年、3月18日横浜根岸駅を出発したタンク貨車石油専用列車18両は、不通となった東北線を迂回して、日本海沿岸を北上。青森を経由、盛岡に下り19日第1便として盛岡に着いた。

【東日本大震災 貨物が見せた「鉄道マンの底力」:Youtube】

 沿岸縦貫鉄路の想いと鉄道マンの底力に願いを込めたいところ。
三陸鉄道開業以来30年。今まで三鉄には乗ったことがなかった爺でも、今年は是非リアス線から見える三陸を眺めてみたいと思った本だった。  

 女子ジャンプワールドカップ最終戦。
1回目、1位高梨沙羅135m。2位伊藤ゆき128.5m。なんという子たちだ♪さて寝よう。


'14/ 3/ 15  根開き頃、バイクメンテナンス開始。

 3年前の今頃は、既にログ周囲の根雪は消えていた。
消えていたのは雪だけではなくて、町中の明りも。それ以上に大きすぎる喪失感があった・・・

 3.11の震災後3年。今年の雪融けは少し遅い。
ログ周辺、日陰にはまだ30cmを越す根雪が残っている。それでもそこには春先の証し木の根元、間伐して勢いが付いて太くなった笹竹の根元そちこちに根明けの凹みが出来ている。
 地域によっては「根開き(ねあき)」「雪周り(ゆきまわり)」「雪根開き(ゆきねびらき)」とも言うそうだ。この根開きを見ながら「農作業の開始時期を見計らったもんだ。」とも。

震災後3年目の今年は3.11関連番組が多く感じる。震災をテーマとしたドラマも何本か見た。ある程度の時間経過が震災に関する視点の多様性が出来てるようだ。ただその中にはドキュメンタリーという触れ込みながら「やらせ」演出が露呈して上映中止になったという映画もあるという。

 ラジオで聞いたニュースでは南北2路線の三陸リアス線全線運行が震災後3年を経てようやく来月からだと言う。市街地ほぼ全域が津波で更地状態になった高田市もようやく嵩上げ工事の盛土搬送コンベアが動き出すのが来月4月からとの事。まだ復興前の復旧域にあると言っていいのだと思う。
 北リアス線は久慈駅〜宮古駅。南リアス線は釜石駅〜盛駅。 その間の宮古駅から釜石駅をつなぐ山田線は復旧の見通しが定まらない。いわば民間、第3セクターよりも民間とはいえ規模は比較にもならない巨大な事業母体のJR東は復旧すら、するつもりはないようだ。

 鉄道の復旧がいいのかBRTがいいのか、実際にこれら路線に乗ったことがなかった爺には、どちらが良いとかは言えないが、この歳になるまで釜石、宮古、久慈に行くにしても鉄道は使わず道路を通ったという事は道路的なBRTが良いのかもしれないと思うが、今まで山田線を使ってきた通学者、クルマを運転しない人たちにとっては鉄道より利便性が下がる事は賛成されないだいはず。いづれ道路と共存する交通インフラが3年の時間を要してもカタチが見えないのはどんなもんか・・・。
 どちらにしても震災後3年実に膨大な人数のメディア関係者がこの地を訪れたはず。
マスメディアの影響は極めてでかい。多様化する視点の一つをJRやら復興庁へのキャンペーンでも張ってケツを叩いて欲しいもの。

 さてさて春近しの今日この頃。今だ雪が舞う時もありそれがみぞれ、雨にも。
そんな時は、来月、齢10年超のマイバイクの車検に向けて出来るだけの手当てを!。
 まずは2年履き続けたフロントタイヤ交換を。


'14/ 3/ 8  春っぽさの後の、余寒

 週初めの春めいた陽射しからウグイスの初鳴きも聞こえたが、週中グズついて週末には雪。
とうとう土曜日昼過ぎの天気予報では「大雪注意報」ですと。
 「寒の戻り」というのも春めいてきてからの寒さという事だそうだが、当地の3月初旬まだまだ春は先。火曜日に聴こえたウグイス初鳴きはそれっきり鳴き声は聴こえない。
 今時期の寒さは「寒の戻り」というよりは「余寒」と言うのが正しいか・・・。


 グズついた天気の週中、山仕事もだめで久々の床屋さん。
髪を刈ってくれた方は同年輩か!?刈る途中「春になると変なのが出てきますねぇ・・・」と。
千葉県柏市の通り魔事件を念頭に言った話とは思ったが「春になると変なのが・・・」と云うのは昔は耳にした事もあったけれど最近はあまり聞かないのでしばらく頭の中に残った。
 統計的にも理屈的にも自分には全く分らないが・・・春先には不穏な心理になる・・・。のか!?
そういう話自体が単なる記憶違いかな?とおもって「春になると変なのが・・・」で検索。
 ありますねぇ。自分は検索で見たが、質問を発している人もいる。

Q:
春になると変な人が増えるのはなぜ?

春になると、街に変な人が現れたりしませんか?
ホテルの屋上で裸になって叫ぶ人、意味もなく同じ場所をグルグルしてる人、今年の春はそんな変な人を見かけました。
毎年春、そういう人を見る気がします。
なぜそういう人が春に多いのか、知ってる人、教えて下さい。お願いします。


 いやぁ自分は実感した事が無かったが、居るんですねぇ春の異常を感じる人は。

A:ベストアンサー
統計的にはわかりませんが、統合失調症などで、春先にきまって症状が悪化する人はいるようです。
精神科に救急で担ぎこまれる人は増えます。ホルモンの関係かな?
と勝手に考えていますが、真相は謎です。
もしかしたら、日本では春は1年の区切りの季節であることとも関係あるのかもしれませんが...

 なるほど!!他には

@別に増えてはいません。
春になると貴方も気持ちよくてよく外に出る為に、そういった人に会う確率が高くなります。
おかしな人も同様に頻繁に外出するようになりますから、ますます出会う確率は高くなりますよね。

A春先の今頃は年度の切り替わる時期なので、他の季節よりも
1.進学、就職、引越し、異動、定年退職等に伴い、
  新しい生活パターンを作る必要があり、
  「日常生活の何にどれだけ力を入れるか」という配分が
  未完成な段階時に持て余してしまったエネルギーを
  変な形で発散する人が多い。
2.加えてその土地に越して来たばかりだと地理もよく分からず
  知り合いもいないので持て余したエネルギーを1人でもできて
  (お金もかからない)無意味な運動や発声で処理する人が多い
からだと個人的に推測しています。
3月はそれまでの後始末や新生活の準備で忙殺されているので
それが落ち着いた今頃になると
それまで使っていたエネルギーのやり場を失って
奇行で処理してしまうのだと思います。

 これまたうなずけそう。
爺的には次の回答が面白いかな

B>ホテルの屋上で裸になって叫ぶ人・・・

さすがに、冬は寒くて出来ないでしょう。

 結構、外作業が多くて季節の移り変わりは感じているつもりだったが、ここ木楽庵では変な人というか訪れる人自体が少ないので変な人との出会いも少ないという事なのでしょうかね。山中でたまに出会う人がいても、爺にとっては変な人か、変でないかの識別に疎いだけかもしれないし(苦笑
 案外、街中を歩いてみれば見る事があるのかも。ただ事件性を帯びる変な人はゴメンですがね。


'14/ 3/ 1  快晴の日は、スキー日和♪♪。
 週初め、快晴の日につられて奥州市「ひめかゆスキー場」へ。
平日という事もあるだろうが、ボーダー・スキーヤー合わせて到底100人は居なさそう。駐車場に並んでいる車の台数を考えてもねぇ。
 数日前の新聞記事では奥州市の財政状況はかなり厳しそう。スキー場運営の民間移転とかの策も検討事項の一つになっている様子。確かに平日とは
 天気の良さそうな平日を選べてしかもシルバー料金利用者では採算に寄与できるわけでもないが・・・

   今年は撮るぞ!
昨日の新聞を読み、沸々と撮影意欲が(苦笑・・・ 【2/28付け岩手日報紙「ばん茶せん茶」より転載。】

「走れ!C58」 太田友次郎氏

 蒸気機関車のC58 239号が復元整備され、「SL銀河」として釜石線で営業運転されるという。
私は戦前、旧国鉄の機関士として山田線でC58に乗務していた。
就職から2年後の大槌−釜石間開通(昭和14年)を前に、釜石駅構内の機関車による試運転が行われた。
 機関士として初めて釜石を訪れた私は、多数の煙突からはき出される煙のバイタリティー、製鉄の町のパワーに目を奪われた。この体験は私の人生を前向きに支えた一つの因子となっている。
 C12の後に配置されたC58は、当時の新鋭機であり、心理的には私と同じ若さや心を共有しているように感じられた。乗車時には「よろしく」、降車時には「ごくろうさん」と声を掛けた。
 自動車も少なかった頃の旅客列車は乗客が多く、出征兵士を送る愛国婦人会などの人々で、ホームがあふれることもあった。
 間もなく始まった釜石−宮古−盛岡間の鉄鉱石輸送は、釜石駅を発車するとトンネルを抜けるまで急な登り勾配であった。機関助士に「行くぞ」と声を掛け、「頼むぞ」とボイラーを軽くたたく。
 発車直後は、蒸気を発生させる火床の炭層が薄いので、投炭焚火作業を行う機関助士の技量が求められる。列車を後押しする後部補機とともにC58が2台がかりで最大限の蒸気発生量をたたき出し、渾身の力を込めて勾配を抜けるまでは、機関車と機関士、機関助士が一体となった作業であり、鉄鉱石列車の一つの正念場であった。
 私は間もなく91歳。自然の摂理も近づいていると思う。C58よ、君はみんなの深い愛情によって、再び魂を吹き込まれた。体力は充分であろう。SL銀河よ、宮沢賢治の世界を走れ走れ。夢と希望に向って走れ走れ。あらゆる人々に前へ進む勇気と喜びと楽しさを与えて欲しい。
 C58よ「健康長寿」を祈る。


 自分は中学を卒業し当時、大船渡線で40分の一関市内の学校へ通い始めるとき、朝6時40分発で運行している列車は蒸気機関車だった。真滝駅から一関駅に向う登り勾配で登りきれず真滝駅迄バックし勢いをつけて又登ったりした。
 機関士はこの太田さんではないかもしれないが機関車の中ではきっと蒸気圧を上げる苦労をしてたのかもしれない。復元したC58が定期運行するというニュースは知っていたが、このコラムを読んだら俄然めがね橋を渡るSLを撮りたい気分になってきた。
 一昨年イベント列車としめがね橋を渡るSL画像を撮ったが、定期運行するなら、めがね橋に限らず場所も天候も様々な姿を撮れる機会が増える事だろう。



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